@niftyトップ

トップ > コラム

なんで、萩に、夏みかん?【萩大志館】

こんにちは!はじめまして!今回からこのコラムを書かせて頂く事になった、萩大志館の井関と申します。僕は長州藩の本拠地、萩市の出身でして、今は東京世田谷の松陰神社周辺に住んじょります。
萩大志館」は、東京におる萩出身者や萩好きな人たちが集まって、ふるさと萩の応援を勝手に繰り広げる、という愉快なチームです。ご縁あって、コラムを書かせて頂く事になりました。
このコラムでは、長州*萩の歴史、萩の名産品について、お話しようと思っちょります。
よろしくお願いしますー!

<萩といえば>
さて、今回ご紹介するのは、「萩夏みかん」です。思い出すだけで顔から汗が出る、スッパーイ、夏みかん。
「土塀からひょっこり覗く夏みかん」といえば、萩の象徴的な風景。街の至る所でたわわに実る夏みかんを見る事ができます。....でも、....なんで、萩に、夏みかん?これが、面白いほっちゃー!

<なんてことしてくれるんだよ!>
安政の大獄。松陰先生が伝馬町で処刑されました。「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」自らの死によって、ひいた引き金。
高杉晋作ら、長州志士達が、爆発。奇兵隊蜂起。草奔崛起が実現。
幕府軍による長州征伐にしぶとく耐え抜き、勝利。
国の風向きが変わり、薩長同盟。大政奉還。
ついに時代はひっくり返り、明治維新。明治新政府発足。
長州藩は時の主役に踊り出ました。

ところが・・・

長州の本拠地、萩では、なんとも皮肉なことが起こっちょりました。

自らが成し遂げた近代化。それは「武士という職業」を消し去ることでもありました。
彼らのふるさと萩で武士として働いていた人たちが、職にあぶれてしまったのです。。

武士としてはたまったもんじゃありません。生まれも育ちも武士。オヤジもじいちゃんもひいじいちゃんも武士。それがある日突然、「はい、今日からただの人ですよ。」と。
しかもそれを、同じ長州出身の人間に決められた訳です。そりゃーもう、叫んだはずです。
「なんてことしてくれるんだよ!!」と。

<裏庭の救世主>

とにかくさあ大変。どうやってご飯を食べていけばええほ?

農業?侍が鍬だの鎌だの持てるかー!!商売?侍がヘコヘコできるかー!
・・・でも、おなかがへっちょるほ。。萩は「毛利の城下町」から一気に貧困の街に転げ落ちました。そんな元武士たちの不満と貧困を、新政府への反乱という形で立て直そうとした前原一誠。しかしこの「萩の乱」は一瞬にして叩きつぶされます。

そんな中、今日の主役が現れます。明治新政府にいた長州藩士、小幡高政です。

荒れ果てた萩の土地を目の当たりにした高政は、萩の救済のために新政府を辞職し、萩に帰りました。
「戦争ではなく経済活動でこの街を立て直す」
高政は、ある物に目をつけました。萩のお隣の街、今の長門市の海に流れ着き、萩の庶民の裏庭でひっそりと楽しまれていた果物。

そう!夏みかんです!

...っと、今日のおはなしはここまで。
後編に続く!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】⑩越後・長岡編(その1)

Dscf0916
★六十里越・・・新潟と会津を結ぶ山深い道。眼下に田子倉湖が見える。

お察しのとおり、私は司馬遼太郎は大好きです。
中毒といってもいいくらい。
その彼の最高傑作のひとつとして知られているのが「峠」。

越後長岡藩家老河井継之助は陽明学の徒として生き、幕末、官軍を相手に血で血を洗う激戦を
繰り広げます。いわゆる「北越戦争」で、調べるとこの戦いだけ唯一、戊辰戦争の中で官軍と幕軍
の戦死者が拮抗していて、しかも異常に多い。近代兵器を揃えていたことがその理由ですが、この
弱小の譜代藩がそのような実力を持っていたことに、当時の新政府軍の首脳陣は驚愕しました。
この現象を作り出した張本人が河井でした。

彼は越後に住み、世の中に動きがあるたびに峠を越えて、江戸へ、京へ向かい、藩のために働きました。そして終わると再び峠を越えて故郷へ帰ってくる。この往復運動の中で、河井は幕末のキーマンというべき存在になっていった。まさに峠から「時代」というものを見た男だったのです。

ま、なんかそんな話だったような気がします。
「峠」は、“司馬遼節”全開で、くどい事この上ない小説なので、誰にでもおすすめしないですが、
河井は私にとって郷土の英雄で、誇らしい存在ではあります。彼は幕末期最強といっていい、戦闘
司令官としての才能が備わっていたのは間違いないでしょう。


でも、多分、
多分ですよ、私は峠越えの回数でいったら河井に負けてないでしょうね。
クルマ・バイク・原チャリ・自転車、、、いろんな方法で、ありとあらゆる峠を通りました。

群馬・水上へ抜ける三国峠、
阿賀野川沿いに福島へ抜ける鳥居峠、
会津へ至る八十里越、
田子倉ダムを抜ける六十里越、
奥只見からの沼田街道、
信濃川沿いに長野へいく117号線、
妙高高原脇の飯山街道、
謙信も通った古道・北国街道。

結局、新潟県はどの国に行くにも峠を越えなければなりません。
驚くべきことに、ここに挙げた道以外あと2~3県外へ通じる道があるだけで、あとの道は県境で突如として消えてしまう。河井が通ったとして有名な八十里越えも(国道289号線)いわゆる点線国道で、
クルマが通れるような道ではない。

バイクでいろいろなところへ行って気付きましたが、やはり新潟の山は大きいのでしょう、比べれば中国地方の山などは子供みたいなもんですし、長野みたいに高いところがまとまって高原になってればまだいいんですが、大抵は平野部から一気に立ち上がって、こんもりと視界をさえぎる巨大な壁なわけです。
標高以上に高く、新潟を囲んで連なっている気がします。


自転車はやばかったですね。日は暮れるは、猿は出るわで、、。
それでも、こんなことをやってたら、 私にも峠から「時代」が見える日がくるんだろうか、いつか、、。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】⑨萩・吉田松陰編(その5)

Photo

明治を迎えるまでの幕末期、長州という藩はメタメタに叩かれ、大量の血を流しながら、
それでも吠えることをやめない手負いの犬のようだった。

薩摩・会津に図られたクーデターで京を追われ、朝敵の汚名を被り、大坂の夏の陣以来という
全国36藩15万の兵に四方から蹂躙され、日本中を相手にするだけでは飽き足らなかったのか、
今度は英、米、仏、蘭の4カ国艦隊に噛み付き、粉々にやられた。
「もうだめか、。」というところで、薩長秘密同盟の話を坂本龍馬がもってくるわけだが、
ともかく出血多量で死にそうなのにエネルギーだけは放ち続けていたのである。

とても正気の集団とは思えない。

そして、その先頭に立っていたのが松下村塾の門下生たちである。
下に主要人物と没年を列挙したが、塾生のほぼ半分が維新を迎えるまでに命を落としている。

Photo_2

■松陰及び松下村塾生の最期

吉田松陰・・・1859年(安政6年)江戸伝馬町にて斬首(29歳)

松浦松洞・・・1862年(文久2年)京都・粟田山の山中で割腹自殺(24歳)

吉田稔麿・・・1864年(元治元年)6月5日、池田屋事件にて死亡(24歳)

久坂玄瑞・・・1864年(元治元年)蛤御門の変に破れ、京都にて自刃。(25歳)

入江九一・・・1864年(元治元年)蛤御門の変に破れ、京都にて自刃。(28歳)

有吉熊次郎・・・1864年(元治元年)蛤御門の変に破れ、京都にて自刃(23歳)

高杉晋作・・・1867年(慶応3年)結核のため死去。(27歳)

司馬遼太郎が「世に棲む日日」の中で、江戸の獄での松陰の言動について
「死の直前の松陰はまるでキリストのように、預言者的な言動に冴えが加わった。」
というようなことが書いているが、門下生たちもまるでキリストの弟子のように師の後を追い、
信じた道に殉じた。そして、さらに多くの長州藩士が続き、若い命を散らした。

ひどい話だが、それでも彼らがなければ、世の中は決して変わらなかったであろう。
だとすれば、彼らは何を胸に風雲の中を駆け抜けたのかと思う。
黒船に対する危機感だけで、人は命まで投げ出さないであろう。まだ国家はそこまで重くない。


Hitoya_sub04b
★松下村塾の門下生たちにも止められるくらい、年々松陰の思想には過激さが加わってくる。


余談だが、
映画「獄(ひとや)に咲く花」の原作「野山獄相聞抄」の作者・直木賞作家の
古川薫さんにインタビューしたときのことを思い出した。

古川さんは言う。
「松陰については大勢の歴史家が資料を調べ尽くしていたが、句集まで読み込んだ者は
いなかったと思う。膨大な連句集の中から、相聞歌、つまり恋愛の歌を発見した時は
うれしかった。そこに吉田松陰と高須久子の儚い恋模様が浮かび上がってきたのです。」

 『手のとはぬ雲に樗(おうち)の咲く日かな』

安政の大獄で、江戸に送られることになった松陰に久子が贈ったはなむけの句。
これに対し松陰は一通の封書を久子に手渡す。中にはこんな句が入っていた。

  『一声をいかで忘れんほととぎす』

「そしてそれが『野山獄相聞抄』という作品につながった。」と古川さんは言う。

Hitoya_sub1b

そして、「獄(ひとや)に咲く花」という映画につながるお話を聞かせていただいたのだが、
最後に古川さんはこう言った。
「そもそも吉田松陰というのは、作家からみるとまじめで真っ直ぐすぎて、しかも“神様”だから
題材にしづらい。」と。

ただし例外が2つあるそうだ。
「一つ目は今回映画になった『吉田松陰の恋』。つまり野山獄での出来事。
もう一つは、松陰は多くの紀行や句集や論述があるが、ひとつだけ彼がルポをした、
“女のかたき討ち物語”がある。これが興味深い。」

『討賊始末』というその物語から松陰の思想の根源的な部分がうかがえるという。
それは「人間には、元々卑賤はない。」という人類平等の考えである。
今では当たり前のことだが、当時これほど珍しく、尚且つ危険な考え方はない。
片田舎の寺子屋のような所で、そのような先端思想が日々唱えられていたのは驚きだが、
松陰を知る上での最重要ポイントのひとつだと古川さんは言う。

そして、松陰はその平等の思想の上に尊王を載せた。

さらに尊王の上に倒幕を載せたのであった。

その瞬間から、多くの下級武士や足軽以下の貧民や農民たちにとって、尊王攘夷は
階級闘争になった。ひときわ貧しい中から出てきた伊藤博文や、山県有朋も志士で
ありつづければ身分など関係ない、お互いを「―君」と呼び合えることに興奮を覚えたはずである。

人が人がましく扱ってもらえることに必死になるのはあたりまえのことであろう。
私は、これこそが松陰が長州人を変えた部分であり、維新が倒幕にとどまらず、
廃藩置県、武士の消滅、国民皆兵まで一気に至った「熱」の根源と思う。
これは理論では説明しようがない、松陰の残した感覚というべきものであろう。
なればこそ長州人なら比較的さらりと入るところが、薩摩人には難しかったのではないか。

(萩・吉田松陰編おわり)


【幕末ドットコム旅日記】こっちは旅情報がいっぱい!
http://tabi.nifty.com/users/index/1555

| | コメント (0) | トラックバック (1)

【幕末ドットコム紀行】⑧萩・吉田松陰編(その4)

Hagi38
萩の町は、明らかに他の町と違う。
普通、古都と呼ばれる町は、ある面では実に狡猾な観光都市として、
派手に着飾っているものだが、萩にはまったくそういうところがない。
そのままに昔を保つことに集中していて、余計な商売や、目立つ看板の類がない。

また、名所・旧跡というのは普通(鎌倉でも京都でも)町のそこしかしこに「点在」
しているものだが、萩では町のある一角が全体的に「幕末」テーマパークなのである。

この町の特に武家屋敷が密集している町の西側にいこうものなら、
タイムスリップしちゃったかという心持ちになる。

それでも
テーマパークなんかと違って独特の緊張感がある。

だって、普通に人が住んでる。
古い練り塀の向こうにちゃんと夏みかんが実っている。
全部本物なんだな、それがこの緊張感につながってるんだと思う。
日本の観光地っていうのはもっと観光客に媚びてるけどここはそうじゃない。
本当に素敵な町だと思う。

Hagi45
★萩城跡 天守は既にないが、その巨大な威容がうかがえる城跡。

Hagi42      
★毛利輝元像  関が原に敗れた毛利家は広島から移され、この萩の地に“閉じ込めれられた。”
          それから維新までの約260年間、徳川への復讐を誓うのは毛利家の秘められた
          正月行事となっていたという。

Hagi41
★家老クラスが居を構えた街の西側。古い町並みが本当にそのまま残っている。


Hagi50
★中級武士が住んだといわれる呉服町。ここには桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作の家がある。

Hagi37
★桂の生家:基本小さいが部屋数も多く庭もある。桂の生家は100円で入れる(安い!)
 「桂の銅像は萩にはないのですが、京都にあります。」といっていた。
 “日本の維新の三傑”も萩での人気は、松陰、高杉に及ばないようだ。
  (※一応言っておくと萩往還公園に桂の銅像はあります。)

Hagi39
★桂の家のすぐ近くに高杉晋作の家がある。
 以前、小泉元首相が来たときの写真が残されていた。
 あと、維新の佐幕vs倒幕の番付みたいのが貼られていて、
 確か西の横綱が高杉とか坂本龍馬で、東の横綱が松平容保であったような。。

Hagi49
★街に案内板があまりないかわりに道路の側溝が道案内図になっている。
 やっぱり萩の人たちは、すごく意識して昔の萩の姿を保とうとしているんだな
 と思った。すばらしい。みんなマネしたほうがいいと思う。

■日本旅行幕末の旅http://nta2.jpn.org/bakumatsu/

Hagi51

★一方こちらは街の反対、比較的貧しい東側のエリア。松下村塾など松陰ゆかりの地が多い場所。
 ほとんど全て松陰神社の神域にある。
 神社の鳥居付近に立てられたこの石碑は、土佐の坂本龍馬が長州の久坂玄瑞と会談した場所だ
 そうで、ちょうど前々回の「龍馬伝」で龍馬が「攘夷とは何か教えてつかぁーさい!」と久坂
 に言ってる場面があったが、その対談があった場所だそうである。

Hagi17

★松下村塾の中には、塾出身の志士たち明治の元勲たちの肖像画が並ぶ。

Hagi21

★松陰神社1890年創建。松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の
  遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である。
  1907年、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、松陰神社になった。
 

 このとなりの神社が確か松下村塾の皆さんが祀られた結構オールスター神社みたいのがあった。

Hagi25

★神社の近くに伊藤博文の銅像と家がある。
 日本の初代内閣総理大臣の銅像は思ったより小さい。
 桂小五郎の時も感じたが、萩とその他の地域の人物のイメージというか格に差があるようだ。
 
 
やはり、ここでは伊藤は「リスケー!」のままなのだろうか。

Hagi29
★松陰神社から、さらに東側に山を登ったところにある東光寺
 毛利の菩提寺である。

Hagi28  
★毛利の墓(@東光寺)すごい墓。灯篭に囲まれ圧倒される。他に人影もなく、
 昼間でもちょっと怖い。
 帰りに、出口のほうにある重臣の墓を見ていったら周布政之助の墓も発見!

Hagi27
★吉田松陰と金子重輔萩の街を見守っているようである。

 
実は萩で一番興味深いのはこういった古く珍しい旧跡や建造物ではないなと
途中から思い出した。
「それは萩の人たちだ。」と思うようになった。

松陰は松下村塾の塾生から「先生」と呼ばれていた。彼を先生と呼び出したその日から、萩は
維新胎動の地
となったのかもしれない。
志の犠牲は小さくなかった。一時は日本中を相手に戦わなければならなくなった。すごいことだ。

今、この街のほとんどの人が松陰を「先生」と呼ぶ。

時代を旋回させた街の気迫はもうないかもしれないが、誇りは今も失われていないのだと
強く感じる。
そう、この街の人は全員、松陰の
塾生なのである。

■幕末ドットコムと日本旅行がコラボレーション!
 幕末の旅企画を立ち上げました第一弾は
 映画「獄に咲く花」公開記念・松陰の足跡を追う萩の旅です!
 http://nta2.jpn.org/bakumatsu/


| | コメント (0) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】⑦萩・吉田松陰編(その3)

Noyamagoku1

●吉田松陰が投獄された野山獄は萩市内にある牢獄で侍専用であり、中庭をはさんで12部屋の
独房があった。
ここに投獄される者は、ほとんどが殺人・傷害の前歴を持ち、しかも何犯も重ねている。
最長老は大深虎之允(とらのじょう)で、獄中生活50年というはたちそこそこから入獄している
終身刑の老人である。ついで獄中生活17年の弘中勝之進、14年の岡田一廸(かずみち)などが古い。
古い連中はもはや人間としての表情の変化というものがなくなっており、笑ったり怒ったりしている
者はせいぜい5年以下の者たちである。 

●そういう意味では「活気がある」といって、褒めてもいられないのが、富永弥兵衛などという者で、
在獄2年くらいだが、独特のとげのある言い方で他の囚人に絡んでは面倒を起すので、獄の中でも
嫌われていた男であった。元藩の御膳部役だったというからプライドも高かったのだろう、実に面倒
くさい性格の持ち主だった。
もちろん、この男は松陰に対しても入獄当初から変質的ないやみの数々を言うことを忘れなかった。
Hagi32
 ★野山獄

●吉田松陰のおかしさは、この状況において
「牢でぼんやりしていてもしょうがないので、ものを習いたいがみんな一緒にどうか?」
などと言い始めることである。
しかも、習う相手はヘビのようにいやな男・富永弥兵衛からで、習字を習いたいと言う。
富永は実は藩校・明倫館では秀才と呼ばれた男で、書の腕も名人級であった。
「いや実に目の覚めるような達筆で、この機会に富永氏から習字を教わることができたらこれほど
有難いことはない。私の書の師になってほしい。」
まっすぐな視線でこんな事を言う松陰に、富永はいつものイヤミを出しようがなかった。

●次に松陰は「俳句を習いたい。」と言い出した。
こちらも名人がいる。在獄5年の吉村善作である。
「是非私の師になってください。」
松陰だけでなく、牢獄の全員が吉村の弟子になり、獄中で「俳句の会」が定期的に開かれるようになった。

●(社会に出れば家族からも忌み嫌われる自分が、ここでは先生と呼ばれる。。)
富永や吉村の心に大きな変化がもたらされたのは言うまでもない。
そればかりか、野山獄全体がいつの間にか活気に満ち、古株たちにも表情が戻ってきているではないか。
牢屋は一転学び舎(や)になってしまった。これは実に変わった光景であったろう。


●松陰は、自身の一年二ヶ月の牢獄生活を「勉学に役立てよう」と思っただけかもしれない。
だが獄中の名人たちを「師」として教わるうちに、囚人全員から逆に「師」として仰がれるようになる
何かをこの男は持っていた。この時松陰、24歳。野山獄で最も若い男が、多くの大人たちの尊敬の的と
なったのであった。


●そして、この時33歳の富永弥兵衛は、このあと松陰に松下村塾へ教授として招かれている。
ただやはり、面倒くさい変質的な性格は終生変わらず、塾生に煙たがられただけでなく、
後年、伊藤博文や山県有朋、品川弥二郎など既に明治政府の要人となった松下村塾出身者のところ
に行っては「リスケ!(伊藤博文の幼名)」などと呼び捨て、毒づくやら見下すやら大変なもので、
何かの話を聞いても決して人のことをよく言わないという異常性格の持ち主であったが、
吉田松陰のことだけは生涯「尊師」として敬ったと言う。

Hagi15_2
★松下村塾

●そして、もうひとつ、
野山獄において重要なエピソードがあり、それが、映画「獄(ひとや)に咲く花」で描かれる
吉田松陰と獄につながれた未亡人・高須久子(映画では久)の淡い恋物語である。

(続く)



1
★「獄に咲く花」より


Hagi34
★岩倉獄
野山獄の通りをはさんで向かいには侍以外の罪人が入る岩倉獄(跡)がある。
松陰と一緒に下田の海へ乗り出した士分でない金子重輔に対して、藩は一切の手加減を
しなかった。病気にもかかわらず寒風の中護送中され、この岩倉獄に入れられ、そして牢の
中で健康をさらに崩し、死んだ。
映画「獄に咲く花」でも、最初の弟子ともいえる金子を思い、獄中から「こっちの野山獄に移せ!」
叫ぶ松陰の姿が描かれる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】⑥萩・吉田松陰編(その2)

Yamagu6

●新幹線でトンネルに次ぐトンネルを抜け(“山陽”新幹線とはよくいったものだ)、新山口に至る。
新山口からレンタカーで国道9号線を使い山口、山口から萩往還という道路で萩に行く。

JRの「とれんた太」くんは、どんなレンタカーが出てくるかいつも楽しみなのだが、
今回はスバルのステラだった。こいつはパワーもないし背もやたら高いので、
山口の高低差のある道を、ひぃひぃ言いながら、フラフラしながら、がんばって走ってくれた。
あまり誉めようがないのだ。

●萩はいわば体のいい流刑地といっていい。関が原に勝った徳川家康が、敗れた
毛利氏を、それまでの広島市から、この交通の便の悪い日本海側に閉じ込めたのだ。
萩往還はだから、メインルートである山陽道とつながる数少ない「窓」みたいなもので、
毛利の殿様の参勤の道として、山を南北に切り裂いて作られた。

Hagi10_2
●山の合間から萩の市街が見えてくると、その景観の美しさはしばし見とれるほどである。
山といい、海といい、奇観だなあと思う。こういうダイナミックな地勢の町はなかなかない。
だが、三方を山に囲まれ、その盛り上がりが海岸線まで迫って平野部を完全に囲ってるあたり、
まさに“閉じ込められた”場所という感じがする。
そして、街中に忽然とそびえる指月山の麓には毛利の城がある。

この最終防衛線の緊張感はどうだ。
指月の城は、ここから一歩も引けないという長州藩の怨念のこもった、牢獄の中の要塞に思える。

Hagi27
★吉田松陰と金子重輔 萩の街を見下ろす位置に松陰の生家があった。
  現在はこの銅像の脇の敷地に、松陰と彼の弟子たち、及び杉家の人々の墓地がある。


ここに育った吉田松陰のことを話さねばならない。
彼の人生は、そのほとんどが旅と勉学だった。
子供時代の松陰は、叔父の玉木文之進のスパルタともいえる教育を受け、10歳で藩主毛利敬親
に武教全書を講じ、藩校・明倫館の教授になるという異例の秀才ぶりを発揮している。
敬親は「藩の宝だ」と少年の将来に期待した。一方、明倫館の生徒はやりづらかったっだろう。
今話題の加藤清史郎じゃないが、10歳の言わば「こども先生」に教わるわけである。

●松陰の最初の旅は19歳で、長州沿岸部・三田尻への視察旅行であった。その後、20歳で
九州遊学の旅に出て、長崎、平戸、熊本をまわり、宮部鼎蔵(ていぞう)など重要な知己を
得ている。

そして翌年、毛利敬親に伴って江戸へ出府。
天才・佐久間象山に師事するのも、脱藩までして東北旅行に出るのも、この年のことである。
まあ、何より松陰はこの時期、「旅」そのものに魅せられていたのだと思う。

Hagi24
●松陰の東北行は水戸から会津を経由して新潟。佐渡に立ち寄った後、北上し、
秋田―弘前―盛岡―米沢―日光、と春先の東北をぐるりと一周して江戸に戻るものだった。
そして、その後脱藩の罪で国許に送還されている。
江戸―萩は距離にして1000キロを軽く超す。これもまた旅である。

●松陰の判決は「士籍剥奪と10年の遊歴」。許可なく旅行に出た男の判決が10年の旅行とは、
この藩は、どこまでもこの男に甘かったとしか言いようがない。いい時代である。
松陰はその後、大阪、奈良、伊勢と翼を得たかの如く転々と旅した。
そして江戸に再び象山を訪ねた時、「運命の対象物」=黒船に会うのである。
彼はその黒い船体に自分の運命を託そうと照準をしぼった。

この時、松陰23歳。三田尻への旅からわずか3年あまり。
日本を縦横し続け、ついに列島に納まり切らなくなったという、実に急激な人生である。

●下田踏晦事件は松陰から翼を奪った。篭で萩に護送されてきた松陰を、藩は獄につながざるを
えなかった。彼はその後、萩のほんのせまいエリアに幽閉され、日本のどこにも行けなくなる。
旅こそが学問であり、人生そのものとなっていた松陰にとって耐え難かった状況に違いない。

●ところが、この境遇が松陰の秘めた能力を開花させることにつながった。
“ガイジン”のペリーや、江戸・伝馬町の牢名主の心さえも動かした松陰の特別な“人間力”
に彼自身が気づいたのは、市内にある藩の牢獄である野山獄に入れられていた時だと思う。

Hagi32

これまで忙しく動き回り、いろんな人に説きまくり、それにしては何一つモノにできず、
失敗を繰り返していた松陰が、牢獄の中で横の牢にいる罪人仲間に語りかけ、彼らの変化を
感じるうちに、自分の持っている本当の力に目覚め、なすべき道を確信したのではないか。

“閉じ込められて力を発揮するタイプ”というと語弊があるが、
吉田松陰という人は、萩の町によく似ているかもしれない。
(続く)


【幕末ドットコム旅日記】こっちは旅情報がいっぱい!
http://tabi.nifty.com/users/index/1555

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歴ドル 小日向えりの人物コラム「伊東甲子太郎」

Eri
今回は、私が新選組の中で土方歳三の次に好きな伊東甲子太郎について取り上げたいと思います。甲子太郎は新選組から分離した御陵衛士のカリスマ的リーダー。一般的には悪役に書かれることが多くて哀しいのですが、知れば知るほど先見性があり、魅力的な人です。

甲子太郎の最期は油小路事件でした。近藤勇に自宅に呼ばれて、歓待され酔っぱらった帰り、油小路で待ち構えていた新選組隊士らによって暗殺されました。惜しまれる死です。そのとき、懐に入っていたのが今後の政治構想について書かれた「建白書」でした。建白書の内容は当時にしては非常に先進的です。藩ではなく日本全体を視野にいれたもので、大開国大攘夷・一和同心・国内皆兵などを訴えています。

藩同士で争い、国力の疲弊した日本では、いずれ外国に乗っ取られてしまう。まずは諸外国との貿易で国を富ませ、国民が身分の関係なく一致団結(一和同心)することで、やっと外国と並び立てる存在になれる。いわゆる富国強兵策です。また、中心が天皇であるという違いはありますが、公議(話し合い)によって政治を進めるという、新政府が後にとった議会制度の案も書かれています。

強烈な尊王攘夷論者という印象が強い甲子太郎ですが、実は開国論者なんです! 開国を訴えていたのは、勝海舟や坂本龍馬だけではありません。甲子太郎は当時、大久保利通や龍馬とも交流を持っていたようなので、明治維新を彩ったキーパーソンと国事を論じて互いに影響を与えていたのかもしれません。

小日向えりKohinata_3
生年月日:1988年1月17日
血液型 O型
身長 164.5cm
体重 46kg
趣味 歴史,史跡巡り(お城,古戦場,お墓参り),坐禅,カメラ,Tシャツ収集
特技 なんでも歴史に例える,歴史上の人物のモノマネ
学歴 横浜国立大学 教育人間科学部 4年在学中
肩書き 歴史アイドル.Tシャツ研究家
資格 三国志検定3級(女性芸能人唯一の検定保持者)
好きな三国志人物 諸葛亮孔明,呂蒙,趙雲
好きな戦国武将 真田三代,石田三成,大谷吉継
好きな幕末志士 土方歳三.坂本龍馬,伊東甲子太郎

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】⑤萩・吉田松陰編(その1)

Hagi0_2
★萩往還道路の料金所脇に立つ、吉田松陰(中央)と、高杉晋作(左)、久坂玄端(右)。
最初、萩にくるならここから来たい。山の間から市街が見えて、気分はいきなり盛り上がる。



●明治維新というのは、実に不思議な政治現象であった。
外国に対する危機感から始まった攘夷という「熱」が、いつの間にか倒幕の動きにすり替わり、
幕府を滅ぼした後、勝った薩長さえ解体させてしまったのである。

この「熱」の正体は、いったい何であったろう。

●薩摩の支配者、島津久光などは事態に納得できず、“元”家来の西郷・大久保を恨んだという。
それはそうだ、京・江戸へ押し出し、幕府軍を蹴散らしたのは自分の軍隊である。
ところが戦争に勝っても政権を掌握できないばかりか、気がつけば薩摩藩はなくなり
、武士という階級そのものがこの世から消滅してしまったのである。

(そんなばかな!)ペテンにでも引っかかったような思いだったろう。

●ところが、恨まれた西郷・大久保のほうも、そこまで考えて幕府をぶっつぶして、
明治新政府を立ち上げたのかというと、そうでもないからこの話はややこしい。
「武士の世を終わらすために幕府を叩く!」
と西郷が戦場で号令をかけたことは、一度としてないだろう。
そんなことを言ったら兵がついてこないのは明らかだからだ。

●果たして「武士の世を終わらす。」これは誰の意図であろうか?
幕末・明治の登場人物は多い。いろんな人がいろんな所でいろんなことを言う。
しかも不確かな口伝えや伝承も多い。清川八郎のようにその場のポーズで魔術的な
論理を展開できる者もいる。だが、幕末の風雲の中で武士の世を否定している人間は少ない。
「俺たち(サムライは)、もう要らねーだろ。」
これは、わかっていても決して言えない、当時としては超ラディカルな危険思想と
いってよかった。

だが後年、明治維新が日本史において唯一の「市民革命」だと言われるのは、
この封建時代の身分制度を打破したことが大きいのである。

だからこそ、山口・萩へ行かなければいけない。
吉田松陰が、その数少ない一人であるからだ。

Hagi10
★吉田松陰の墓地から萩市を望む。三方を山に囲まれた街中に忽然そびえるのがお城のあった指月山。
 奥の水平線はもちろん日本海である。



萩は山口県の日本海側に位置する市で、江戸時代を通じて長州藩の殿様、
つまり毛利氏の本拠地で、古い町並みが残っている城下町だ。
そして、もちろん萩は吉田松陰の出生地であり、彼の私塾・松下村塾があり、
幕末の志士たちを大量に輩出したらしい。
と、その程度の知識だけど、まずは行ってみようと思う。

●今回はさすがに新幹線を使う。
時間があれば車・バイクで行きたかったが、そうも言ってられない。
仕事である。
東京~新山口までは「のぞみ」で行くと4時間半でしかない。
1027キロという距離を考えると、「もう少しかかってもいいぞ」と
思うくらいで、旅情も何もないくらいに便利なのである。

●ただ、仕事の関係で東京駅への到着時間が少々遅れてしまって、
予定のひとつ後の便をお願いすると、若い駅員が1時間30分も先の時間
を言ってきた。どの「のぞみ」も、新山口に停まるわけではない。

(なるほど、新山口は新大阪ほど便利に考えてはいかんな。。。)

しばらく空いた時間で新山口から山口、そして萩までの道を頭に入れておこう。
そこはクルマで行く。市内に入ってからの宿の予約もしなければ。。

少しは、旅の感覚が出てきたみたいだ。。。

(続く)

【幕末ドットコム旅日記】こっちは旅情報がいっぱい!
http://tabi.nifty.com/users/index/1555



| | コメント (0) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】④黒船来航伝~下田踏海編

Shimodaumi_3 

★下田柿崎の弁天島から下田湾を望む。二人の若者はここから黒船を視界に捉え、その向こうに
 世界を見ていた。

●日米和親条約の締結後、最初の開港地・下田に来たペリーは条約の細則(下田条約)
の交渉に入っていた。彼らは、上陸を許されてたものの、異国人に近づく者はおらず、
しばし人影のない街中を歩くことになった。
実は、一つの原因は幕府の役人が町民をアメリカ人に近づけないように裏で指示してい
ためで、ペリーは来航以来、このような幕府の姑息なやり口に腹を立てていた。
(はっきりしない日本人め、何を考えてる。。)

●ところがある日、上陸した米士官が街はずれを歩いていると、明らかに
町人ではない、太刀を帯びた武士が二人、後ろからついてくるではないか。
どうしたことかと思い、そちらに向き直ると彼らは周りの視線を気にしながら恐る恐る
近づいてきて、一人の士官の上着に畳んだ手紙を滑り込ますと唇に指をあて、
(秘密にしておいてくれ、)と懇願して即座に立ち去った。。。

●米士官に渡された手紙は世界を欲する想いに溢れた気迫の籠った文だった。
惜しむらくは、それが漢文だったことだ。当時の知識人は気合が入ると漢文でいく
という癖を持っていた。ところが相手はアメリカ人である。日本人でさえ難しい
この手紙をペリー艦隊の通訳がどこまで理解できたか、定かではない。
がともかく、このあと何が起こるかは充分に理解できた。二人の日本人の若者は、
アメリカに渡ろうと黒船に密航させてくれと言ってきたのだ。

●この二人の若者こそ、吉田松陰と金子重輔であった。
下田踏晦(とうかい)と呼ばれるこの事件は、表向きは実に地味で騒動とも呼べないが、
「海外渡航は死刑」という当時の常識を知れば、どれほど決死の冒険だったかわかる。

Photo

●1854年4月24日(嘉永7年3月27日)。手紙の通り、二人の若者は下田湾に停泊する旗艦
ポーハタン号の甲板に現れ、渡米を願い出てきた。
だが、幕府と交渉の最終段階であったペリーは、ここで要らぬ不安を抱え込みたくはなかった。
「今は条約交渉中で難しい。が、このあと機会はいくらでもある。」
意を受けた通訳のウィリアムズが二人の若者に言い、帰そうとした。

「帰ったら、殺される。」
彼らは弱りきった表情で訴えた。
さらに、ここまで乗ってきた小船が流され、そこに刀が置き去りになっている。
「それが誰かに発見されれば、我々が海外渡航に及ぼうとしたこと言い逃れは
できない、国禁を犯したものは斬首に処せられる。」と身振り手振りでひたすら
に懇願するのであった。

それでも二人の若者は陸上に戻されることになった。
肩を落とし、陸に送り届けられる彼らに、いつしかペリーは同情の気持ちを覚え始めていた。

●その後、下田に上陸した米士官からの報告がペリーに入った。
街の通りに面した小さな牢獄にその二人の若者が閉じ込められているという。
彼らは、自身の運命を冷静に耐え忍んでいる様子であり、そして話しかけると、
こちらに微笑みさえ浮かべてくれたという。
そして、その時一人の若者(松陰であろう)が紙の代わりに、そのあたりの板切れに
文を書いて寄越したとのことであった。

その文は英文翻訳され、ペリー艦隊のアメリカ人たちに読まれ、深い感動を与えた。
これはペリーの「日本遠征記」の中で、死に面した人間の哲学的境地として驚嘆すべき
例として記載されている。西洋が“武士”というものに触れた最初といっていい。

「英雄一度その目的を失えば、その行為は、悪漢、盗賊の行為と考えられる。
吾等は衆人の目前において捕らえられ、縛められて、永く拘禁されている。
(中略)吾等は五大州の周遊を企図した。これ吾等が多年の心願であった。
吾等が企図は突如としてつまずき、狭苦しい檻中に入れられ、飲食、休息、
座臥、睡眠も困難である。吾等如何にしてこの中より脱出し得べきか。
泣かんか、愚人の如く、笑わんか、悪漢の如し。ああ吾等沈黙し得るのみ。」

●実は、当初ペリー陣営はこの二人の若者が幕府のスパイではないかと疑っていた。
「条約を守れるかどうか試すために、幕府が仕組んだ罠だとしたら。。」
ペリー陣営が二人の密航を許さなかったのは、そのような事情もあったのである。

だが今、牢での彼らの状況を聞き、その文章を読み、嘘のない二人の若者の気持ち
を確信したペリーは激しく心を動かされたのであった。
(こういう日本人もいるのか。。)

ペリーはこの事件に際して「日本遠征記」にこのように記している。(※概略)
「日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人がいた。
彼らをみるに日本人は疑いなく研究熱心で道徳的である。
日本人がこのようなものであるとすれば、この国の前途は何と実のあるものであるか、
その前途は何と有望であることか。」

Shouin1
★弁天島にある吉田松陰と金子重輔の像(S4)ドラマチックである。

●吉田松陰はそのようにして幕末の歴史に登場する。
彼は、その後の短い人生でもしばし見せるような、人の心を突き動かす力を
最初から、しかも外人を相手に発揮している。
ペリーの日本人観は、この事件を境に変わったといってもいいであろう。
 
そして、ペリーが予見したように日本人は実に研究熱心であり、なんとその後
2、3年の間に、見よう見真似で黒船を自らの手で作り上げてしまうのである。

【幕末ドットコムの旅日記ができました!御覧ください。行ってみよう!】

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【幕末ドットコム紀行】③黒船来航伝~下田編

Perisimo1

★下田湾と湾岸に立つペリー像(S3)
 1854年3月3日、神奈川で日米和親条約が結ばれた。
 ちなみにこの条約は、1941年の日本の真珠湾攻撃まで保たれることになるが、
 太平洋戦争終結後、ミズーリ号での日本の降伏調印式にマッカーサーが持ち出した
 アメリカ国旗は、この日米和親条約締結時にペリー艦隊の旗艦ポーハタン号にて
 使われていたものであった。

●江戸の人々を震撼とさせたペリー艦隊は日米和親条約の締結の後
日本最初の開港地となる下田へ向かった。
なので、私も車で下田へ向かってみる。
下田は伊豆半島の突端。地図で見ると近そうだがこれまた浦賀同様、
行ってみるとまた凄まじく相当遠いのである。

東名高速から、小田原厚木道路をとおり、ターンパイクを駆け上り、
伊豆半島の背骨にそって南下する快走路・伊豆スカイラインに入る。
尾根伝いのゆるやかなカーブの向こうには南伊豆の山並みの緑やら、
時には相模湾の青も混じる。実に気持ちがいい。
気持ちはいいが果てしなく遠い。
海を左に見ながら一般道をさらに南下すると下田に着く。

●伊豆は古来より歴史の転換に重要な舞台となってきた。
あの源頼朝決起の地であるから武家政権発祥の地といっていい。、
初の戦国大名といわれる北条早雲もまた、この地から領国経営を
はじめたことからいえば、戦国時代発祥の地でもある。
そしてまた、近代化の波に飲まれ、列強といわれる国々に揉まれ、
鎬を削る日本の歴史もこの地からはじまったといえる。

Photo

●近代化の波といえば、ペリーが残した「ペリー提督日本遠征記」には
ペリーが日本に来た際に蒸気機関車や電信機を持って来て、その実演をした話も
載っている。煙を吐いて自走したり、声を線が伝わったり、初めて見た日本人は
目もくらむ思いだったろう。アメリカ人的にはしてやったりである。
また西洋では礼砲といって礼儀の意味で大砲を撃つ。日本人にとっては信じ難い
習慣にいちいち狼狽するばかり。
まさしく彼らは、のけぞりながら「近代」に接していたのだと感慨がある。

●さらに、一触即発の事態も起こった。
サスケハナ号に乗っていたピッチンガーさんという牧師がまったく無邪気な
好奇心から、指定区域を離れ、てくてく東海道を江戸に向かったという事件だった。
高圧外交で通すペリーもこれには多少恥じたのか、部下を捕獲に向かわせたらしい。

外人に免疫のない日本人はこういった予想外の事態のオンパレードに過敏に反応した。
幕府内では対米開戦論なども勢いを増してくる。
まとめ役である当時の筆頭老中・阿倍正弘は悩みに悩んだ。
この日が来ることを予見し欧米の情報を熟知してた彼は、いい格好をして勝てる
はずのない戦に「日本」を引き吊りこむわけにはいかなかったのであった。


●この問題を他とは違った視点から見ている2人の男がいた。
幕末の志士のほとんどは、この2人の影響下にあるといっていい。
一人は当時の日本人にしてよくぞといわんばかりの情報を元に、来るべきアジアのビジョンを既に
持っていた薩摩の殿様・島津斉彬である。
薩摩は琉球で密貿易を行っていた関係上、情報や貿易が生み出す巨利にも斉彬は敏感だった。
彼は開国反対派だったが、思想的というより非常に現実的にこの問題を見ていたというべきだろう。

対して、
今一人の男はペリーの下田来航に伴って、実に素朴な行動で世に出てきた。
ある意味ピッチンガー牧師の日本版といっていい。

その名を吉田松陰という。

| | コメント (0) | トラックバック (0)